皆様こんにちは!!大東情報局です。
初春とはいえ厳しい寒さが続いております。
風邪などひかない様、体調管理には十分に気をつけて下さいね。
さて、今回の情報局では、日本の歴史・城・神社仏閣の大・大・大好きな、私、久保田が趣味の『お城巡り』を、知多半島に限定して紹介していきます。
実は、今までに東浦町の城跡にはあまり行った事がなかったのですが、お城巡りの前に事前調査をしたところ、東浦町には思っていた以上にお城が多くあったことが分かり驚かされました・・・・。
では早速ですが、今までに私自身が巡った78ほどの城・城跡の中から、「東浦町内」のお城だけをピックアップしましたので、最後までお付き合いのほど宜しくお願いいたします。
お城って、観るだけで癒されます!!凄くパワーが貰えます!!
お城の造形美に最大の魅力を感じます!!
築城当時の背景を考えただけでもワクワクします!!
観光スポット・パワースポットとして観るだけでも楽しいと思いますし、歴史・城・神社仏閣などに少しでも興味を持って頂けたら幸いです。
★★★愛知県 東浦町のお城(城跡)★★★
◆『緒川城(おがわじょう)』
愛知県知多郡東浦町緒川字古城
緒川城は、徳川家康の生母・於大の方が生まれた水野氏の居城址です。
築城年代は定かではないですが、鎌倉時代に尾張源氏の一族・小川重房が築いた地頭屋敷がその始まりと云わります。
南北朝の動乱時に美濃尾張の守護・土岐氏に攻められて落城しましたが、その後、小川氏の末裔である水野貞守が1475年に緒川城を築きました。
水野氏はさらに勢力を拡げて、知多半島制覇を成功させました。
その後、織田信長に謀反の疑いをかけられ、水野氏は一時断絶してしまいますが、1580年に再び緒川城主となります。
そして1606年、最後の緒川城主・水野分長が、三河国新城に転封となり、緒川城は廃城となりました。
緒川城は、東浦町役場の北東にある丘に築かれていました。
現在、宅地の中の公園に櫓台、土塁跡が残り、於大の方誕生之碑とともに城石碑と案内板が設置されています。
付近はほぼ宅地化されていて残されている遺構は少ないです。
町役場の西にある乾坤院は水野貞宗が建立した水野氏の菩提寺で、水野氏四代の墓があり、総門は緒川城の移築門との伝承があります。
◆『濁池城(にごりいけじょう)』
愛知県知多郡東浦町緒川字笠松
1360年に土岐氏が来襲の際、小川正房が地頭屋敷高藪城を放棄し、先祖小川氏八代の墳墓が在った濁池に砦を急造して防いだが4人の息子と共に滅びたと伝わります。
末子の信安は信濃国に逃れ潜伏していましたが、四代後の忠義の代に緒川の地に戻り土岐氏に対抗し、忠義の息子である貞守が土岐氏の代官である竹内八郎を駆逐して、緒川の地を取り戻す事に成功しました。
貞守は水野氏を名乗り、高藪城の南に緒川城を築き知多半島を制圧していく事になります。
現地には不動教会総本部があり、濁池城の跡だとされています。
遺構は確認できませんでしたが、周辺より一段高くなっているのが分かりました。
◆『村木砦(むらきとりで)』
愛知県知多郡東浦町森岡字取手(八劔神社)
村木砦は、緒川城の水野氏を攻めるために今川氏が築いた砦です。
1551年ごろ今川義元によって築かれたと伝わります。
今川氏は寺本城の花井氏に人質を出させ味方につけ、村木砦と寺本城で、織田氏と水野氏を結ぶ道路を遮断、水野氏を攻めます。
水野氏は織田氏と協力して村木砦を攻撃し多数の死者を出したものの陥落させました。
なお、この戦は信長が始めて鉄砲を使用した戦として記録に残っています。
村木砦の戦いは、かなり激しい戦で、討ち死にした兵士も多かったらしく、戦死者供養の為に建立されたのが現在の村木神社です。
現在、村木神社のある場所は、砦の南側の出丸の様な一部分で、主郭は北側にあり宅地になっています。
信長公記によると、村木砦の東側は大手で海だったとの事ですが、現在は畑地になっています。
どうでしょうか?
今回は私が実際に行った事のある東浦町内のお城だけを紹介しました。
地元・知多半島には、まだまだ他にも素晴らしい魅力のある『お城(城跡)』が沢山ありますので、又の機会に紹介させて頂きたいと思います。
お城に興味のある方は、是非行ってみて下さいね♪
最後までお付き合い頂きありがとうございました。
記事担当:大東店 久保田