みなさんこんにちは☆住吉店の矢野です。
突然ですがみなさんは日本史を語るうえで、どんなことを思い浮かべるでしょうか?
古代日本?戦国時代?幕末明治?いろいろな時代背景や登場人物が出てくるでしょう。
なんといっても筆頭に出てくるのがキングオブ日本史“織田信長”。
日本の歴史上圧倒的存在感を放っているこの人物、
その第一歩はご存知【桶狭間の戦い】。
私の出身地は有楽新田店・阿野店がある“愛知県豊明市”、
地元では「桶狭間古戦場」を見学するのが小学生の遠足の定番でした。
この記事が公開される日は6月13日。
桶狭間の戦いがあったのは今から459年前の6月12日、時期的に今頃かぁ…。
少年時代に名古屋市緑区と豊明市をもっぱらの行動範囲にしていた私にとって、
「桶狭間」という地名にそれほど意識したことはありませんでしたが、
いい機会でしたので当時ここで何があったのか、いろいろ考えながら散歩しました。
(日本史好きりんくう店の飯田さんが敢えて取り上げてないので(^_^;))
織田信長の相手駿河国(静岡県)を本拠地にする有力武将“今川義元”は、
勢力範囲を三河国まで伸ばしていました。
(ちなみに三河国は徳川家康生まれの松平家領)
信長の父“織田信秀”の死後、
織田領内で三河国に近い沓掛・大高・鳴海の3つの城が今川方へ寝返り投降して、
1550年頃にはついに尾張国内に今川勢力が侵入してきました。
文禄3年5月17日(1560年6月10日)25000人の大軍で進攻してきた今川義元は、
“沓掛城”に入り尾張織田攻略の作戦会議をします。
その沓掛城は以前紹介されてましたね。
今川方に投降した残り2つの城のひとつ“大高城”。
名古屋市緑区JR大高駅から西へ歩いて10分ほど、
現在は密集した住宅街の中で公園になっています。
坂を上った山の上に開けた本丸跡があります。
ここの城は周りを見渡すにはちょうどいい城です。
そんな大高城を見張り流通を断つために、信長は近くの丘に2つの砦を作りました。
その一つ大高城跡からJRを挟んで東側すぐ“丸根砦”。
坂を上がって、さらに階段で登った小山に砦跡があります。
そこから北へ車で2分、こちらも丘の上の住宅街に小さな公園になっている“鷲津砦”。
2つの砦で織田方は今川の動向を見張っていましたが、
5月18日(1560年6月11日)沓掛城の義元の命で当時配下にあった“徳川家康”は、
先遣隊として砦の見張りをかいくぐり大高城への食料調達に成功、
翌日5月19日(1560年6月12日)未明3時ごろ、丸根・鷲津両砦を攻撃しすぐに制圧。
その後、夜明けに今川義元率いる本隊が大高城めざして沓掛城を出ました。
その道中に義元最期の地「桶狭間」があります。
この時まで織田方の本拠地“清州城”で家臣が大騒ぎする中、
全く動じなかった信長は、2つの砦が陥落した知らせを受けるなりすぐ、
朝4時ごろわずか騎馬5騎を連れて出陣。
徐々に兵を集めながら現在の名古屋市中区“東別院”・熱田区“熱田神宮”を経由して、
今川方に投降した残りの城“鳴海城”付近まで一気に進軍しました。
鳴海城は名古屋市緑区名鉄鳴海駅から北へ坂を上がり歩いて5分の住宅街、
本丸跡地は現在小さな公園になってます。
公園から県道を挟んで反対側の神社内に鳴海城の石碑が立っています。
公園から道路をまたいで神社まで鳴海城の敷地があったとされてます。
信長は鳴海城に対しても監視の砦を3つ作っています。
1つ目は進軍した信長が最初に入ったとされる“丹下砦”。
その後、兵を進めて朝10時ごろ“善照寺砦”へ入りました。
善照寺砦は鳴海城から東へ500mいった丘の上、こちらも小さな公園でした。
信長はこの善照寺砦で「今川軍が桶狭間にて休憩中」という報告を受けて、その後動き出すことになりました。
このとき今川軍は、丸根・鷲津砦を陥落させ織田に勝利を確信し、酒盛りをしていたとされています。
ここがチャンスと見た信長は、桶狭間に向け正午ごろ“中島砦”へ移動しました。
善照寺砦から南へ500m、名鉄鳴海駅から歩いてすぐ扇川の横に中島砦跡はありました。
ここは公園にもなってなく、狭い道の住宅の間にポツン…すごく分かりにくいです。
重要な史跡ですが、意識しなければ絶対気づかずスルーしてしまうポイントです。
この時期は梅雨で当時は午後に入り黒い雷雲が立ち込め集中豪雨になり、
中島砦を出た織田軍は運よく今川方に気づかれずに、桶狭間付近まで近づけたと言われています。
そしてこのあとは皆さんもご存知の結果に至って、織田信長の躍進が始まりました。
地形・集中豪雨・義元の油断が信長勝利に影響したのは本当でしょうが、
「桶狭間の戦い」の全容は詳しく分かってなく、奇襲か正面突撃か、
集中的な狭い戦いなのか広範囲な戦いなのか、いろいろな説がありますが、
織田信長という天才による作戦勝ちには違いありません。
ついでにですが、豊明市前後町内に桶狭間の戦いによって戦死した、
織田・今川両軍の兵士約2500人を葬ったとされる、“戦人塚”と呼ばれる史跡があります。
今回のちた散歩は、桶狭間の戦いに関連するポイントに実際に足を運んで、
地形や周りの様子を目で見て、位置関係や距離を肌で感じた訳ですが、
自分が生まれ育って住んでいる場所が、歴史的にいかに重要な土地であるのか改めて実感した次第です。
前述しましたが、【桶狭間の戦い】は詳細が分かっておらず、
実際にどの場所でどのように展開されたのかは諸説あります。
「桶狭間古戦場伝説地」から南に約500m、
名古屋市緑区内に現在も「桶狭間」の地名が残っている地域があります。
このあたり一帯で当時何が起きたのか?
みなさんも機会があれば当時に思いを馳せて、
この地域を訪れてもいいのではないでしょうか?
散歩したスタッフ:住吉店 矢野