住み慣れた町を飛び出し、まったく知らない町へ向かい、人に囲まれた生活にワクワクドキドキしていた若かりし頃もありましたが、私もアラフォー世代になり、地元よりも愛知県に住んでいる時間のほうが長くなっていました(;´Д`)
昨年、愛知県で一軒家も購入し、いよいよ私も『愛知の人間だな』なんて思っていた矢先、元日に起こった能登半島地震。
私、加藤の地元は石川県の七尾市。
これまで人生の中で目立ったニュースも特にない田舎の町だったと思います。
そんな地元でまさかあんなに大きな地震が起きるとは想像もせず、全国放送のニュースで毎日のように取り上げられるなんて思ってもいませんでした。
地震が発生した1月1日のあの瞬間、私はりんくう店の景品カウンターで仕事をしていました。
目の前で交換対応中のお客様の携帯から「アラート音が聞こえたな」と思ったら、景品コーナーに展示してあるトミカなどの商品が少し崩れていました。
愛知の人、いや太平洋沿いに住んでいる人なら、地震がくるたびに南海トラフ地震がついに来たかと身構えてしまうのではないでしょうか?
揺れがおさまり、「今回も違ったか」と思いつつ商品を棚に戻していた時、同僚が「石川の方で結構大きい地震だったみたいですけど大丈夫ですか?」と声をかけてくれました。
事態を飲み込んだ私は、まったく情報もないまま、すぐに母の携帯に電話をしました。
翌日から私も帰省予定でしたが、母は先に帰省していた姉と翌日用の食材などの買い物に出ていたようで、買い物帰りの車の中で地震にあっていました。
母は少し混乱した様子だったので、姉に電話を変わってもらうと家に足腰の弱い父を1人で残してきたからすぐに迎えに行くとの事で姉も慌てていました。
後で聞いた話ですが、この時電話をしたスーパーの駐車場から実家までは通常時に車で10分ほどの距離でした。
実家はスーパーから見て海側にあったので海方向に車を走らせていくと、対抗車線の車が山の方向に向かってどんどん渋滞をしていたのが見えていたらしく、父をなんとか車に乗せた後、親戚の家が山の中腹にあるので裏道を駆使して避難をしたそうです。
移動の最中も、避難をしてからも何度も余震があり恐怖心でいっぱいなところを、父と母を守らなければという一心で気持ちを保っていたと姉が教えてくれました。
その後に出てくる情報は地元が被災し、甚大な被害を受けた現実をつきつけるものでした。
中学生の頃によく友達と釣りをしに行っていた港では、津波によって船が打ち上げられた映像や、通学路だった道の陥没や隆起、見覚えのある家屋の半壊や全壊など、被害は想像以上にひどいものでした。
電話やメッセージでなんとか連絡はとれていましたが、私も気が気ではありませんでした。
ニュースの情報で道路状況が悪く、道が寸断されていたり迂回経路もひどい渋滞で現地に入るのは難しそうだなと考えていましたが、なんとかして実家まで行けないかと考えていたところに、姉からタンスが倒れたり蛍光灯が壊れたりしているけどなんとか生活することは出来そうだと連絡がありました。
しかし電気は通っているけど水道が止まっているので困っていると話があったので水などを届けに行くことに決めました!
実際考えた事もなかったですが、水が出ないと出来ない事は思っていた以上に多くありました。
最初断水していると聞いた時に思ったのは飲み水が無くて料理も出来ないのかなと考えていたくらいだったのですが、水がないと、
① 飲料水(料理)に困る
② 手洗いうがいが難しくなる
③ お皿洗いが難しくなる
④ お風呂、シャワーに入るのが難しくなる
⑤ トイレを流せなくなる
などがあげられます。
トイレにいたっては、流せないと使用出来なくなるので実家の横にある汚水も流れる川の水をバケツで運んで流しているような状況だったそうです。
実際に何が必要か聞いて物資を買いに行ったのですが、食料は正月ということもあってかなりストックがあるので大丈夫だということでしたので、持って行った物が新品のポリタンク2個に水道水をたっぷり入れたもの、2リットルのペットボトル6本入ケースを10ケース、割りばし100本入を3袋、紙皿の平な物とお椀型の物を200枚ずつ、アルコール消毒スプレー、体を拭く用のウェットシート、汚物を包んで捨てる時に匂いを抑えるペット用のトイレシート、ガソリンを持って行くための携行缶などを1月の2日に買い揃えました。
翌日に物資を車に積んでいざ七尾市へ!
名古屋高速を抜けて東名高速に入った辺りから、救助部隊の自衛隊らしき車を見かけるようになりました。
道中もニュースをチェックしながら向かっていましたが、時間が経つごとに悲惨な被害の現状が伝えられてきます。
そんな危険もある場所に縁もゆかりもないであろう方々が救助の為に駆けつけてくれていると思うと、感謝の気持ちで胸がいっぱいになりました。
現地に近づくにつれて高速道路の車の数はどんどん少なくなっていき、自衛隊の車かおそらく家族に物資を届ける為に各地から向かってきた車だけになっていきました。
リアのガラスにダンボールを張り付けて、『救援物資輸送中!!』と手書きのメッセージを書いている車などもいました。
石川県は縦長の県で能登は北部、南部に加賀という感じになっています。
東海北陸道を使った場合は富山県から能登の方に入っていくのですが、北陸道の場合は福井県から加賀に入って能登を目指す形になります。
富山県側の被害も甚大ということで今回は北陸道で向かうことにしました。
道中の道路状況もあり、石川県に入って早々に下道に降り、お店が開店しているか、商品の品ぞろえは必要そうな物があるかなども伝える為に調査しながら実家を目指します。
加賀方面も路肩がせり上がっていたり、お店の店内看板が傾いていたりと被害はあるようでしたが、ほとんど通常営業しているように見えました。
途中ご飯屋さんに寄ったのですが、断水地域だったようで、テイクアウト用の容器で商品の提供をされていました。
そこから能登に向かって進んでいくにつれて周りに見える被害がどんどんひどくなっていきました。
道路のひび割れが大きい物が多くなっていき、隆起や陥没で道路が寸断されているようなところもありました。
七尾市内に入ってからは、ひどい渋滞につかまり200メートル進むのに2時間程かかりました。
七尾市が能登地域の玄関口ということもあり七尾市にかなりの車が入ってきているようでした。
実家に何とかたどり着くと、母と姉が出迎えてくれて少し話をしました。
その日のうちに愛知の自宅に帰る約束を子供達として滞在出来る時間に限りがあったので、全速力で物資を降ろして困っていることを聞いていきます。
車庫や物置の古くなった柱を補強し、二段タンスの上段を降ろすなど男手が必要そうな事をなるべく対応していきました。
家族が一時避難をさせてもらった親戚の家にも物資を運んでから、愛知へ全速力で帰宅しました。
なんとか子供達との約束の時間までには帰宅することが出来たので、被災地に行く事を怖がっていた娘も安心して就寝できたようでした。
翌日以降も余震の情報が止まらず、連絡を取り合いながら励まし続けていました。
最近でも頻度は減っているようですが、余震はあるようです。
実家周りの水道も復旧して生活も落ち着いてきた5月中頃に家族も連れて帰省することができました。
実家の壊れたタンスや汚れてしまった布団などを処分する手伝いをしつつも、ばぁちゃんと遊ぶことが出来て息子も娘も大喜びでした。
トラックに処分するタンスなどを乗せて走っているといたる所でブルーシートがかかった屋根が見えます。
地震の影響で瓦が落ちて補修の間に合っていない家がたくさんあるようでした。
実家も玄関に破損個所があり補修したいのですが、行政の認定を受ける為に現状のまま保存している状況でした。
歴史ある商店が続く一本杉通りではほとんどの建物の入り口に赤紙や黄色紙が貼られて危険な建物と認定されていました。
私が高校時代に通っていた美容院のすぐ近くにある薬屋さんは1階の商店部分が潰れてなくなってしまっています。
ニュースでもよく映っていた和倉温泉の旅館も建物がパックリ割れたままになっていました。
地震発生してから約半年経った現在でも悲惨な状態が見てとれます。
田舎町ということもあり、古い建物も多く現代の耐震基準に満たない物も多くあったのだろうと思います。
実際に当事者になって初めて災害時に備えて水や食料などを蓄えておくことの重要性が分かったと母も言っていました。
いざ被災してからでは手遅れになってしまいます。
普段からいつその時が来ても少しでも余裕が持てるように行動しておくことが必要なのだと被災した家族からの体験談で再認識させられました。
みなさんは、自宅の耐震強度は大丈夫でしょうか?
災害バッグの用意はありますか?
食料、水の備蓄はありますか?
家具、家電の転倒防止の対策はされていますか?
その時、後悔しても遅いのです。
皆様もぜひ今一度ご自宅の災害対策を見直してみてはいかがでしょうか?
記事担当:りんくう店 加藤