みなさんこんにちは!話題の大河ドラマ『どうする家康』は観ていますか?
観てない方はぜひご覧ください。
なぜ私が『どうする家康』をお勧めするかというと、まずキャストの豪華さ!!
主役の徳川家康を演じるのは皆さんご存じ国民的スーパーアイドル『松本潤さん』
その妻、葉山殿を演じるのは『有村架純さん』
他にも私の大好きな俳優陣が総出演!
その中の好きな俳優ベスト3を紹介します。
トリック、アットホームダッド、結婚できない男などでの濃ゆい演技が印象に残っている、
リアルケンシロウ『阿部寛さん』
出演するすべてのドラマが代表作といっても過言ではないマルチプレイヤー、
『ムロツヨシさん』
信長協奏曲(のぶながコンツェルト)では、豊臣秀吉役を演じ、
どうする家康では服部半蔵を演じている『山田孝之さん』
など私が個人的に好きな俳優さんを紹介しましたが、
他のキャストも他のドラマでは当たり前のように主演を張るようなメンツばかり!
キャストの段階で面白くないわけがない!!
気になる方はぜひドラマをご覧ください!
ここからは、徳川家康とはどんな人物か?についてお話していきます。
~徳川家康~
(生没年1543~1616)※生年については諸説あり
『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。 急ぐべからず。』
この言葉は晩年に征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開いた徳川家康が言った言葉です。
天下人として順風満帆な人生を歩んで来たかというとそうでもありません。
では、そんな家康の人生を見ていきましょう。
天文11年三河国(現・愛知県東半部)岡崎城にて生を受けました。
幼名は『竹千代』この頃は今川家に睨まれ、織田家につつかれと、非常に苦しい状況にあった松平家。
天文16年頃、竹千代の父 松平広忠は今川家への恭順を決め、竹千代を人質として差し出します。
ところが、護送の途中で戸田康光の裏切りにより、尾張国(現・愛知県西部)の織田信秀の元へ送られることとなりました。
この頃、若かりし日の織田信長と知り合ったと言われています。
それから2年ほどして人質交換で無事?今川領、駿府に移送されます。
今川家での人質生活を送っている中、大きな出来事が起こります。
その出来事は『桶狭間の戦い』
この戦では織田信長に今川義元が討たれます。
そこに乗じて今川家から独立して、織田信長と『清州同盟』を結びます。
両家の関係は良好で、信長が『本能寺の変』で討たれるまで続いたとされています。
清州同盟によって三河国を平定し、1563年には元康から家康と名を改め、
1566年には朝廷より従五位下(じゅごいのげ)三河守(みかわのかみ)を叙位されています。
この頃から姓を徳川に改めています。
その後、信長の傀儡となっていた足利義昭による『第二次信長包囲網』では、
武田信玄率いる武田軍が上洛を開始。
三河領を素通りしていく事を良しとしない家康は武田軍を追撃します。
家康軍が攻めてきたのを知った信玄は進路を変え、三方ヶ原において戦いを繰り広げます。
この戦は家康軍の惨敗…。
あまりの恐怖に家康は馬上でお漏らしをしてしまいます。
家康はこの時の情けない姿をあえて『徳川家康三方ケ原戦役画』として残しています。
天下統一後の戦とは大違いで、この頃は何度か危ない目に合っていますね。
第一次信長包囲網でも、浅井・朝倉軍に攻められた際には、
殿(しんがり:軍の最後尾で仲間を逃がすために戦う役目)を任されたともいわれています。
因みに武田軍には織田・徳川連合軍として『長篠の戦い』で雪辱を果たしています。
本能寺の変で信長が討たれた際、家康は堺(現・大阪府)に滞在しており、
「信長討たれる」の一報を聞いた家康は取り乱し、切腹を試みたともいわれています。
家臣の本田忠勝に諫められると、三河国までの逃亡を余儀なくされます。
この時の一連の流れを「伊賀越え」といいます。
ではなぜ伊賀越えが大変だったのかというと、当時の伊賀国では大規模な一揆が起きていたからです。
ここでの功労者は忍者といえばでおなじみ『服部半蔵』です。
半蔵により伊賀者約200名が護衛についたといわれています。
そして伊勢国長太(現・三重県鈴鹿市)で乗船し、三河国大浜(現・愛知県碧南市)にたどり着き無事、岡崎城に到着。
またしてもピンチを乗り切る事ができました。
ただ、ここで天下が転がり込んでくる事はありません。
信長の死後、台頭してきた羽柴秀吉が「清須会議」にて信長の嫡孫『三法師』を擁立し、
信長の次男の信雄と手を結び、三男の信孝からマウントを取る事に成功。
賤ケ岳の戦いでは、柴田勝家を破り、信雄は知多半島、野間(美浜町)安養寺にて自刃。
信孝がいなくなり、信雄は自分が後継者になれると思い、家康に援護を要請。
ここでは、小牧長久手の戦いが勃発します。
豊臣秀吉はここで池田恒興らの提案で相手の本拠地を攻めることを決断します。
ただ、この作戦を行うには素早く行い、相手の軍に追いつかれないことが前提です。
その前提ができず、長久手の戦いで豊臣軍は徳川軍の追撃を受け、
池田恒興や森長可が討ち取られるなどの大打撃を被った秀吉は信雄と和睦を結びます。
それによって家康は豊臣軍と戦う理由がなくなってしまい、秀吉の軍門に降ります。
歴史にもしもはありませんが、もしこの戦いが続いていたら、家康の天下が早かったかもしれません。
家康より先に秀吉が天下統一を果たし、家康は秀吉の生存中には家康の力の強大さに関東へ移封を命じ、
家康は豊臣家の家臣としておとなしく過ごしていました。
慶長文禄の役の最中、秀吉が天寿を全うし、家督を息子の秀頼が継ぐことになりましたが、
秀吉の遺言として、秀頼が成人するまで政務を家康に託しました。
この時の政治は五大老と五奉行の合議制で家康は五大老筆頭となります。
筆頭となった家康は合議を行わず大名との婚姻を行い自身の勢力を強めていきます。
大老と奉行の間の石高の差が余りにも大きくなかなか物申す者はいませんでしたが、
その中でも石田三成だけは家康に対し、異議を唱えていました。
この後に、『関ヶ原の戦い』が勃発します。
関ヶ原の戦いといえば家康と石田三成が西軍・東軍に別れて戦ったイメージが強いですが、
ことの発端は、家康と上杉景勝との関係の悪化で、上杉家が謀反の疑いを掛けられ、
家康は釈明を求めましたが、上杉景勝の重臣『直江兼続』が直江状を送り返します。
内容をざっくりと説明すると、
「謀反を起こす気は無いし、むしろ家康さんの方が何か企んでるんじゃないですか?
変な疑いの言い訳をしにわざわざそっちに行きません。
文句があるならこっちに来てくれれば話してやってもいいですよ!」
だいたいこんなような内容が書かれていました。
まぁ、家康がこれを見て怒らないわけがありません。
速攻で会津征伐軍が編成され、家康は大坂から江戸に向かいます。
この時、畿内で別の動きがあります。
石田三成が盟友、大谷吉継を招き徳川軍と戦うと話をし、徳川討伐隊を結成。
まず、石田軍は京都の伏見城を攻撃します。
伏見城陥落の一報を受けた家康は、行き先を変え関ヶ原の地で戦いを繰り広げます。
関ヶ原の戦いに勝利した家康は1603年朝廷より『征夷大将軍』に任命され、江戸幕府を開きます。
その2年後、将軍職を3男の『秀忠』に譲り、家康自身は大御所政治を行っていました。
この「将軍職を譲る」という事は、家康が豊臣家に政権を渡さない事でもあります。
家康は将軍職を引退しましたが、徳川家が盤石になるために、豊臣との因縁を断ち切ります。
それが、『大坂冬の陣・夏の陣』です。
意外と知られていませんが、関ヶ原の戦いは、豊臣政権の内部抗争という扱いで、事実上のトップは豊臣秀頼のまま。
大坂の陣の頃には秀頼も22歳になっており、このころに家康と京都で面会を果たしています。
また家康は、秀吉の供養にと方広寺に鐘を作るように秀頼に進言します。
その鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」という文字に家康はイチャモンをつけます。
国家安康は家康の名を分断した呪い、君臣豊楽は豊臣家を君主として栄えよう。
という事ではないかと。
これに対し豊臣方は弁明をしますが、家康は秀頼に、
臣従・国替えの申しつけ・秀頼の母淀殿を江戸に人質として出す、など様々な条件を突きつけます。
豊臣方はこの条件を呑むことを拒否した為、大坂の陣が勃発します。
徳川軍勢約20万、対する豊臣軍勢約10万
大坂の陣で有名なのは真田幸村・後藤又兵衛・長宗我部盛親・明石全登・毛利勝永の大坂五人衆。
冬の陣では、真田幸村が作った「真田丸」に徳川軍は苦しめられますが、
大坂城に昼夜問わず撃ち込まれた大砲の1発が本丸に命中し、淀殿は和平交渉に応じることになります。
ここでの和平交渉の中で、重要なのが大坂城の総堀を埋めるという事。
この時代、総堀とは城郭の一番外側の堀の事を指しますが、家康はこの言葉をうまく利用し、
「総堀とは全ての堀の事、埋めるのも大変だからコッチでやっちゃうよ。」
と、すべての堀を埋めてしまいます。
冬の陣の翌年、今度はまだ雇っている浪人を解雇して、伊勢or大和への転封を命じますが、
もちろん豊臣方は拒否、これに対して家康は再び挙兵をします。
堀の無い大坂城では籠城も難しく豊臣方は圧倒的不利な野戦を強いられます。
ただこの時、真田幸村が家康の本陣まで到達し、あわやという所まで勇猛果敢に攻め込みました。
家康もこの時ばかりは覚悟を決めたともいわれています。
兵力の差、戦う条件の差が圧倒的に大きすぎ、大坂城は落城しました。
ここで完全なる盤石の徳川幕府の誕生です。
大坂の陣後は一国一城令や武家諸法度などを制定し、
翌年1616年にすべてをやり切ったかのように73歳でこの世を去りました。
一説には死因は天ぷらの食べ過ぎではないかといわれていますが、諸説あるので真相は闇の中です。
『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。 急ぐべからず。』
この記事を書き終えて家康のこの言葉を見ると家康の大変さが少しわかったような気がします。
みなさんもこの記事で予習・復習をして『どうする家康』を1万倍楽しみましょう♪
~画像出典:Wikipedia~
記事担当:歴史案内人 飯田