みなさん、こんにちは。
りんくう『歴史』情報局の時間です。
今年も残すところあと1ヶ月と少し、残りの令和元年をしっかり確実に一歩一歩、
生きていこうと思います。
少し気が早いですが、来年2020年1月より、
大河ドラマ『麒麟がくる』の放送が決定しています。
戦国時代…、歴史…、私が書くしかないでしょう!!
と、いうことで今回は飯田がお送りする
【『麒麟がくる』公開記念!明智光秀について掘り下げてみよう!!】
のはじまり、はじまりぃ~!!
まずは、『麒麟がくる』について。
──記念すべき2回目の東京オリンピックが行われる2020年──
21世紀の日本にとって大きな節目を迎える年です。
そのメモリアル・イヤーに、大河ドラマで最も人気の高い「戦国時代」を、
はじめて4Kでフル撮影、従来とはまったく異なる新しい解釈で英雄たちを描く、
まさしく「大河新時代」の幕開けともいえる作品が第59作「麒麟がくる」です。
飯田:
なるほど、戦国時代をはじめて4K放送するんですね。
キレイな映像で大河ドラマを見ることができるんですね。
「麒麟がくる」は、大河ドラマの原点に戻り、戦国初期の群雄割拠の戦乱のなか、
各地の英傑たちが天下を狙って、命をかけ愛をかけ戦う、
戦国のビギニングにして「一大叙事詩」です。
脚本は、第29作「太平記」を手がけた池端俊策さんのオリジナル。
大河ドラマとしては初めて智将・明智光秀を主役とし、
その謎めいた前半生にも光があてられます。
物語は、1540年代、まだ多くの英傑たちが「英傑以前」であった時代から始まり、
丹念にそれぞれの誕生を描いていきます。
若き明智光秀、織田信長、斎藤道三、今川義元、そして秀吉、家康が、所狭しと駆け巡る……。
「麒麟がくる」──新たな時代の大河ドラマの始まりです。
飯田:
確かに、明智光秀の前半生は謎が多いですよね。
どういった感じで、物語が進んでいくか非常に興味深いです。
また、光秀以外の英傑たちにもスポットが当てられるのでしょうか?
続いて、キャストについて。
長谷川博己 <主人公・明智光秀 役>
木村文乃 <煕子 役>
南 果歩 <深芳野 役>
村田雄浩 <稲葉良通(一鉄)役>
徳重 聡 <藤田伝吾 役>
片岡愛之助 <今川義元 役>
檀 れい <土田御前 役>
佐々木蔵之介 <藤吉郎 役>
滝藤賢一 <足利義昭 役>
谷原章介 <三淵藤英 役>
眞島秀和 <細川藤孝(幽斎)役>
吉田鋼太郎 <松永久秀 役>
染谷翔太 <織田信長 役>
本木雅弘 <斎藤道三 役>
飯田:
豪華な顔ぶれですね~。
滝藤賢一さんとか吉田鋼太郎さんの演技が気になるところですね。
個人的に吉田鋼太郎さんが、僕の大好きな松永久秀をどう演じていくか楽しみです。
ではでは『麒麟がくる』の主人公、明智光秀とはいったいどんな人物だったのでしょう?
まずは、学校で習ったことをサラッとおさらいしましょう。
~明智光秀~
戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こし、
織田信長を自害に追いやった。
直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。
一説では、落ちていく途中において落ち武者狩りで殺害されたとも、
致命傷を受けて自害したともいわれています。
これは本能寺の変で光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、
その短い治世は「三日天下」とも言います。
実際、信長を討ってから13日間で山崎の戦いまで行うのは、なかなか難しいこととされています。
ただそれ以上に、中国大返しを行い、山崎の戦いで勝利を収めた秀吉が、超人的だったと思います。
では、ここから明智光秀について気になるポイントをいくつか挙げ、
Q&A方式で説明していきたいと思います。
Q1.
明智光秀はなぜ織田信長と出会ったのか?
A.
光秀は最初から信長に仕えていたわけではなく、
もとは美濃国の斎藤道三に仕えていました。
その後光秀は紆余曲折があり、朝倉義景を頼って越前国に行き、
この地で家臣として10年過ごしました。
朝倉家には、「永禄の変」で兄・足利義輝を殺害された、
室町幕府の将軍である足利義昭も援護を求めて訪れており、光秀と義昭はここで知り合ったといわれています。
ですが、朝倉氏は義昭を救援する気がなく、そのことを知った義昭は他の救援先を探すことになります。
数ある戦国大名の中でも飛ぶ鳥を落とす勢いであったことから、光秀は信長を頼るよう義昭に助言します。
こうして光秀は信長の元を訪れ、信長との交渉を担うようになりました。
光秀はそこで信長にその能力を見込まれ、信長に仕えるようになったそうです。
Q2.
羽柴秀吉が本能寺の変が起こったこと知り、京に向け出発できたのか?
A.
秀吉に本能寺の変を知らせたのは、どうやら光秀本人のようです。
本能寺の変における光秀は、主君を討った謀反人でしかありませんので、
当然他の大名からの支持が得られません。
そのため、光秀は多くの書簡を近隣の勢力に送り、
さらにその1つの書簡が毛利輝元に宛てたものでした。
書簡を持った飛脚は秀吉の攻めていた、備中高松城を通りますが、
秀吉軍に捕まりそこで秀吉は事の顛末を知ります。
ここで、秀吉は毛利軍に悟られぬよう、
和睦を結び俗にいう『中国大返し』を行うのです。
この時、秀吉の軍師『黒田官兵衛』は「殿の出番が参りましたな」と言い、
秀吉の警戒を買ったといわれています。
さらに、現在でも大事な勝負などで使われる『天王山』という言葉、
これは山崎の戦いで明智軍と羽柴軍が重要な陣地として奪いあった、天王山に由来しているといわれています。
Q3.
戦に慣れているはずの明智光秀がなぜ落ち武者狩りで命を絶ったのか?
A.
明智光秀の謎の一つとされています。
山崎の合戦で敗走中に、落ち武者狩りをしていた農民に竹やりで討たれたとも、
重症を負わされて切腹したともいわれています。
また、家来の溝尾庄兵衛に介錯を頼み、
切腹した後に京の知恩院近くに首が埋められたといわれています。
通説では、首が埋められた翌日に農民により掘り出されて豊臣秀吉の元に届けられ、
光秀の首がさらされたそうです。
しかし、首実検の際に腐敗が酷く、首も3体あったともいわれており、
明智光秀と判別が難かしかったともいわれております。
また、落ち武者狩りから生き延び、徳川家康の参謀『南光坊天海』として生きていた。
という説もありますが、真相は光秀にしかわかりません。
謎は深まるばかり……。
Q4.
なぜ明智光秀は織田信長を裏切ったのか?
A.
こちらはいまだに立証されていない戦国最大のミステリーですね。
昔も今も数々のドラマ・映画・小説などで様々な見解で、本能寺の変がクローズアップされています。
また、謀反の動機には
『家康の饗応の際に、不備があり、信長から折檻された』
『実は、黒幕がいた』
など諸説ありますが、どれも今一つ決定的な証拠がない状態です。
信長の事に関しては、太田牛一編纂『信長公記』をご覧になると、
色々知れると思いますので、興味が湧いた方はぜひ一度ご覧ください。
まぁ、歴史ファンとしては一日も早く、本能寺の変の謎が解明されてほしいものです…。
歴史の事を語りだすと止まらないので、今回はこの辺で…。
また、歴史に関するお話があればりんくう情報局でお伝えしていきます。
記事担当:りんくう店 飯田