皆様こんにちは!!大東情報局です。
日増しに暖かさを感じる今日このごろ、皆様はいかがお過ごしでしょうか?
3月とはいえまだまだ寒い日もございます。
風邪などひかない様、体調管理には十分に気をつけて下さいね。
さて、今回の情報局では、日本の歴史・城・神社仏閣の大・大・大好きな、私、久保田が趣味の『お城巡り』を、知多半島に限定して紹介していきます。
実は、東海市は私の出身地なのですが、今までに地元の城跡にはあまり行ったことがなかったのでお城巡りの前に事前調査をしたところ、私の実家の周りには沢山のお城があったことが分かり驚かされました・・・・・。
では早速ですが、今までに、私自身が巡った73ほどの城・城跡の中から、「東海市内」のお城だけをピックアップしましたので、最後までお付き合いのほど宜しくお願いいたします。
お城って、観るだけで癒されます!!凄くパワーが貰えます!!
お城の造形美に最大の魅力を感じます!!
築城当時の背景を考えただけでもワクワクします!!
観光スポット・パワースポットとして観るだけでも楽しいと思いますし、歴史・城・神社仏閣などに少しでも興味を持って頂けたら幸いです。
★★★愛知県 東海市のお城(城跡)★★★
◆『清水城(しみずじょう)』 愛知県東海市荒尾町弥崎
清水城の城主は清水氏と伝わっています。
もともとこの地には『藤城』と呼ばれる小高い丘があり、現在の正音寺と県営清水団地の間あたりにお城があったと伝わります。
現在お城の遺構は残っていませんが、『知多郡史』には、東西約46メートル・南北約91メートルの規模と記されています。
私の実家のすぐ近く(徒歩30秒ぐらい)にお城があったなんてビックリです!!
この清水城の東北2~300メートルの所に、次に紹介する『平島城』があります。
◆『平島城(ひらしまじょう)』 愛知県東海市荒尾町金山
平島城の城主は水野藤助成政と伝わっています。
また織田信長の亡き後、後継者を決める為に開かれた清須会議に出席した4人の織田家重臣の一人、池田恒興も居城したとされています。
恒興は荒尾家から妻を娶り、池田輝政をもうけています。
輝政は世界遺産で国宝でもある『姫路城』を現在残る姿に大規模に修築したことで知られる播磨姫路藩・初代藩主です。
父の恒興は小牧長久手合戦で討死しています。
お城は荒尾町にある宝国寺の東側、脇ノ田公園周辺に築かれていたと伝わります。
公園が造られる以前、この地は通称『古城』と呼ばれ、小高い丘があったそうです。
また近くの住宅地には、平島城の看板もありました。
現在は、あたり一面宅地となっており遺構は残っていないようです。
周辺には「細井平州誕生の地」や細井家墓所のある西法寺などもあります。
◆『木田城(きだじょう)』 愛知県東海市大田町城山
木田城は、一色左馬之助、荒尾空善、池田輝政が居城したお城です。
鎌倉時代末期に、この地の有力者だった一色左馬之助が築き居城したことが始まりとされています。
そして戦国時代には、知多半島西北部にあった荒尾七ヶ村の地頭で、鎌倉幕府、室町幕府の奉公衆を務めた荒尾氏が入城し、その後、荒尾善次が城主の時代に池田恒興の次男・古新丸(後の池田輝政)を養子に迎え、木田城主にします。
1584年の小牧長久手合戦で池田恒興と長男・元助が長久手で討ち死にすると、輝政は池田家を継ぐことになり、木田城は城主も居なくなり廃城になったそうです。
お城は東西約36メートル・南北約55メートルの規模で、東海市では一番高い場所にあります。
丘陵上に位置する中世の城館跡で、現在の天尾神社周辺とされています。
背後の尾根続きに堀の跡が残っていますが、他の遺構は残っていないようです。
◆『名和城(なわじょう)』 愛知県東海市名和町城谷
城主は室町時代、知多半島を治めていた一色氏と伝わります。
お城は現在の平地公園の西にあたり、周辺は畑地・宅地となっています。
小川や高低差がかなり残っていますが、後世の変化が激しい土地で、お城の遺構かどうかは分かりませんでした。
◆『横須賀御殿(よこすかごてん)』 愛知県東海市高横須賀町御亭
横須賀御殿は1666年に尾張藩二代目藩主・徳川光友の別邸として設けられたそうです。
記録には1666年から1704年まで合計27回の滞在をしたと残されています。
参勤交代で江戸在勤の年を除けば毎年のように保養に横須賀を訪れ、長いときは1ヶ月も滞在したようです。
また横須賀への行程は陸路をとらず、名古屋城下堀川の堀留から御座船で御舟入から直接御殿に入ったといいます。
これは民百姓(領民)の気を使わせない為だったとか。
御殿は、約200メートル×約140メートルの敷地に「臨江亭」という数寄屋造りの建屋と、 その北部に約300メートル四方の回遊式庭園「御洲浜」からなっていたそうです。
御殿としてはかなりの大きさがあったみたいですね。
また、この御殿は単なる別邸ではなく、軍事面での対応もされ、別邸の周囲は堀を巡らし、同時に町割りの工事も行われて、小規模ながら城下町としての基盤割が完成されていたと伝わります。
しかし、この軍事基地的要素が仇になったのか、光友の死後横須賀御殿は取り壊されてしまいましたが、1783年に横須賀代官所設置とともに一部が再興され、藩主が知多半島の巡検の際の休息に使用されたそうです。
現在では遺構も残されていない横須賀御殿ですが、御洲浜、御亭、枡形、土居内、などの地名が当時を偲ばせています。
どうでしょうか?
今回は私が実際に行った事のある東海市内のお城だけを紹介しました。
地元・知多半島には、まだまだ他にも素晴らしい魅力のある『お城(城跡)』が沢山ありますので、又の機会に紹介させて頂きたいと思います。
お城に興味のある方は、是非行ってみて下さいね♪
最後までお付き合い頂きありがとうございました。
記事担当:大東店 久保田