『いいくにつくろう鎌倉幕府』鎌倉幕府の開府の年として、みなさんもしっかり覚えていると思います。
しかし近年、歴史学の発展に伴い新たな発見がありました。
1192年の開府ではなく、1185年に幕府が開かれたという説が現在では定説となっています。
では、何故この2つの年がクローズアップされ、1185年に開府という定義が生まれたのかここで説明していきます。
・1192年説
鎌倉幕府の創始者『源頼朝』が朝廷より『征夷大将軍』として任命された年
・1185年説
朝廷より『守護』と『地頭』を設置する権利を与えられた年。
かつての1192年の方は教科書でみなさんも習い、語呂の良さも手伝って覚えている方も多いのではないでしょうか?
そもそも、征夷大将軍?守護?地頭?と思う方も多いと思いますので、軽く説明していきます。
797年に、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が桓武天皇に、
蝦夷征伐を命じた際に与えられた令外官(りょうげのかん)の一つで、
蝦(夷)を(征)伐する大将軍として任命されたのが始まりとされています。
これ以降は武家の棟梁としての意味合いで使われていきます。
(1603年には徳川家康が征夷大将軍に就任)
鎌倉幕府の開府にあたり、国(現在の都道府県)単位で設置された地方官で、軍事や警察に関する役目を担っていました。
この時代、幕府(鎌倉殿)と武士(御家人)は御恩と奉公の関係の上、成り立っています。
幕府に何かあった場合、御家人が駆け付け、結果に伴った恩賞を受けるといった具合になっています。
後の戦国時代では守護大名が力をつけ、群雄割拠の時代に突入しました。
こちらは荘園(貴族や寺などの事)ごとの設置になります。
地頭は荘園の管理、年貢の取り立てを行っていました。
現在では、税はお金で払うのが当たり前となっていますが、この時代の税は『米』。
長期保存ができ、売ることでお金に換えることができたからです。
鎌倉幕府は荘園からの税収で財力をつけていきました。
鎌倉幕府の開府前は、棟梁を平清盛とした平家が隆盛していた時代。
この頃、政治的中心の要職をほとんど平家が占めていて、
「平家にあらずんば人にあらず」という言葉ができるほどの巨大な勢力となっていました。
そのため、各地の源氏達は肩身の狭い思いをしていました。
その後、後白河法皇の皇子、以仁王が平氏追討の令旨を出し(治承・寿永の乱)、
ぬえ退治で有名な源頼政が挙兵、その頃、東国でも源頼朝が反平家のため挙兵しました。
この一連の戦は皆さんの耳なじみのある言い方にすると『源平合戦』です。
主な戦いとして『富士川の戦い』『一ノ谷の戦い』『壇ノ浦の戦い』が挙げられます。
それぞれのエピソードもここで紹介しておきます。
この戦いでは、奇襲を仕掛けようとした源氏軍が富士川を馬で渡ろうとした時に、水鳥が反応し一斉に飛び立ちました。
鳥が飛び立った音に平家軍は「源氏の奇襲だ!逃げろ~!」と言ったかどうかはわかりませんが、
これを機に撤退を余儀なくされました。
因みにこの時に源頼朝は源義経と再会を果たしています。
この戦いの主役は頼朝の異母弟、義経です。
有名なエピソードとして、源氏軍が断崖絶壁を馬で駆け下ったことが挙げられます。
一ノ谷の断崖絶壁の上に立った義経は鹿が下りられる崖なら馬でも降りられるだろうということで、
部下に「心して下れば馬を損なう事は無い!皆の者!駆け下りよ!!」と、えげつない無茶ぶりをします。
勇猛果敢な武将はそのまま駆け下りますが、怖気づいた武将は馬を担いで降りたと、こちらも無茶なことをして下ります。
平氏の方は大慌てです。全く警戒していなかった崖の上から源氏軍が下りてくる。私が平氏なら逃げますね。
因みに、この一ノ谷の後山を鵯越(ひよどりごえ)と言い、
のちの軍師 竹中半兵衛の兜はこの鵯越えをモチーフに作られたといわれています。
こちらは、現在の山口県下関市を舞台に繰り広げられた戦いです。
こちらも先程と同じく、義経がリーダー。
今までの陸での戦いとは違い、海上での戦いです。
最初は平氏が優勢、源氏軍は関門海峡の激しい潮の流れを読み切れず苦戦していました。
ところが、義経は平氏軍の舟の漕ぎ手を矢で射る奇襲作戦を行ったそうです。(諸説あり)
因みに、この時代の戦では非戦闘員(さっきの漕ぎ手など)を襲うことは戦の作法に反するらしいです。
この戦の前哨戦の『屋島の戦い』では、扇の的を射るエピソードが有名で、
平氏の女官が船の上の扇の的を指し「この扇の的を打てるものなら射ってみよ!」と挑発。
これを聞いた義経は、外しては源氏の名折れと、那須与一(なすのよいち)に的を射るように命令しました。
那須与一は八幡大菩薩に祈り、見事的を射る事に成功しました。
殺伐とした戦の中で「こういうレクリエーション的なこともするんだ」と思った方もいるのでは??
壇ノ浦の戦いで敗れた平氏は、天皇家に嫁いでいた建礼門院、安徳天皇が入水したということです。
この時、3種の神器の一つである天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が紛失されたといわれています。
こうして平氏に打ち勝った源氏が、朝廷からの恩賞として受けたのが、
『征夷大将軍』の任命と『守護と地頭の権利』となります。
鎌倉幕府の仕組みは、トップに『将軍』がいて、その下に将軍を補佐する役割の『執権』、
中央(鎌倉)では政治を行う『政所』、御家人の統率を行う『侍所』、裁判を行う『問注所』があり、
地方では、先ほど説明した『守護』『地頭』、この2つのほかに『六波羅探題(ろくはらたんだい)』があります。
六波羅探題とは、承久の乱の後、京都の警備・朝廷を監視する役割を担っていました。
京都の六波羅という地名からこの名が付いています。
鎌倉殿の13人では『執権』が大きなカギを握ります。
その執権とは…
『北条義時』
彼が活躍する大河ドラマ『鎌倉殿の13人』2022年1月より放送開始となります。
今回のお話で鎌倉幕府を予習した上で観ると、10倍楽しむことができる事間違いなし!!
記事担当:りんくう店 飯田